「城山」とは梶原景時館址を指します。
その名残で、一之宮小学校と県道46号線(産業道路)の間に城ノ下緑地(写真)があります。
城山地蔵堂は、現天満宮(写真)の辺りにあったと思われます。
江戸時代の相模国準四国八十八カ所の案内書(*1)によると、景観寺から城山地蔵堂への道は、「当家はつれ 南かはにて 高き所に つりかねのある堂也」と書いてあります。
この説明に該当するのが天満宮です。
(1)南側
景観寺と天満宮は大山街道(県道45号線)を挟んで、北側と南側に位置します。
(2)高き所
天満宮は高い所にありました。
「『さむ川その昔を語る』第九集(昭和61.11.1) p57『天神様について』鈴木辰男さん」によると「天満宮の所はとにかく高くなっていた。かなり石段を上るようになっていた。中瀬の神明(社)さん(写真)よりまだ高かった(神明社の石段は13段)。高く盛られた土も明治の末か大正の初めに近くの窪地や屋敷にならされてしまった」とのことです。
また、「『郷土さむかわ』第13集(平成2.11.1)p17『昔の一之宮』秋沢カネさん、入沢エツさん」によると「天満宮はかなり高い所にあって、10段ぐらいの石段が2つぐらいありました。石段の途中にお地蔵さんがありました」とのことです。
(3)つりかねのある堂
「『さむ川その昔を語る』第九集(昭和61.11.1) p57『天神様について』鈴木辰男さん」によると「天神様が高い所にあった頃、鐘つき堂もあった。大きな鐘もあった。明治44年、鐘つき堂は残っていたが、鐘はなかった。関東大震災の時には鐘つき堂もなくなっていた」とのことです。また、「『郷土さむかわ』第13集(平成2.11.1)p17『昔の一之宮』秋沢カネさん、入沢エツさん」によると「天神様は東を向いていて、その前に釣鐘堂があった」とのことです。
(1)城山地蔵堂は、相模国準四国八十八カ所の内、第83番札所であり、弘法大師石像がありました。この石像は、現在、南泉寺にあります。
(写真:第83番札所弘法大師石像)
(2)城山地蔵堂は如是庵持ち(*2)であり、高座郡南部地蔵二十四札所の内、第9番札所でもあります。第9番札所の地蔵像はどこへ移されたか不明です。
(*3)
*1:藤沢市教育文化研究所「藤沢 民俗文化」8号p90に鵠沼刈田の山上家に伝えられた御詠歌と順路案内が掲載されています。
*2: 如是庵持ち 寒川町史10 p.111 文政7年(1824)の書上帳の記載(町史2史料62)
*3:石地蔵は宮山根岸共同墓地にありますが、東光寺の地蔵像と思われます。東光寺は寛政(1789)前に廃寺となりました。(「郷土さむかわ第15集(平成4年11.1)p46『一之宮の七不思議』池田銟七」より)
南泉寺と景観寺に地蔵像があります。
南泉寺
木造地蔵菩薩半跏像
寒川町史11(別編美術工芸)p115
景観寺
木造地蔵菩薩立像 正徳6年 一之沢{伊勢原市浄発願寺(じょうほつがんじ)}中興三世 空元明阿上人作
寒川町史11(別編美術工芸)p140
如是庵は景観寺と同じく、浄発願寺(伊勢原市)の末寺です。