茅ヶ崎市にある国指定史跡「下寺尾官衙遺跡群」と寒川町の関係を拾い出してみました。
下寺尾廃寺の寺名と、当時下寺尾は高座郡(たかくらぐん)のどこの郷に属していたか、共に定かではありません。寺名の候補に「海円院」「法承寺」「漢河寺」などがあります。
「漢河は『寒川→寒河(かんが)→漢河』と転じたものではないか。もし、寺名が漢河寺(*1)なら、当時下寺尾は寒川郷に属していたのではないか。」という説(*2)があります。
漢河寺=下寺尾廃寺であるならば、漢河寺=定額寺であり(*3)、天慶3年(940)10.27、定額寺の大仏が汗を流した(*4)のであれば、定額寺=漢河寺=下寺尾廃寺は940年まで存続していたことになります。
*1:「ふるさと歴史シンポジウム 復元!古代都市平塚~相模国府を探る~」p26「『相模国府』をめぐる年表」荒井秀規 2006.11.11
(平成26年度神奈川県考古学会講座「相模国を創る 古代の役所と寺院」 主催 神奈川県考古学会 2015.2.22 p44 {上記「ふるさと歴史シンポジウム」の引用)}
*2:
「神奈川県の歴史(県史シリーズ14)」 中丸和伯 S49(1974).1.10 山川出版社 p48
「かながわの古代寺院」 岡本孝之 2001.3.11 神奈川県考古学会 p7, 9
「相模の古代史」鈴木靖民 2014.10.15 高志書院 p136
*3: 「郡家と周辺寺院」シンポジウム「下寺尾官衙遺跡を考える」H24(2012).7.15 荒井秀規
*4: 日本記略 後編 第二 朱雀院
一之宮の木島鄰(たすく)(淡哉:第2代寒川町長)氏が「明朗の茅ヶ崎」第十号 昭和14年4月15日で新編相模国風土記稿の上正寺の項を元に、下寺尾に「七堂伽藍があった」と述べています。
「明朗の茅ヶ崎」第十号 昭和14年4月15日
新編相模国風土記稿 上正寺
宝亀2年(771)(*1)、東海道は四ノ宮(平塚市)(*2)から相模川を渡り、寒川町を通って海老名へ通じていたと思われます(*3)。そのため、下寺尾廃寺や群衙と都(奈良・京都)を往来する人々は、寒川町を通っていたと思われます(*4)。
*1:時代によって変化していった古代東海道のルート
http://hamarepo.com/story.php?page_no=1&story_id=1912
*2:平塚市の[構之内遺跡(かまのうちいせき)]、[東中原E遺跡]から古代の道路跡が発見されています。
*3:「神奈川の古代道」 藤沢市教育委員会 博物館建設準備担当 1997
*4:「史跡 下寺尾官衙遺跡群 保存活用計画(素案)」平成29年1月23日 茅ヶ崎市教育委員会 p27
寒川小学校内に七堂伽藍(下寺尾廃寺)の礎石が残っています。
下寺尾官衙遺跡郡の内、岡田南河内遺跡と大曲五反田遺跡は寒川町にあります。
岡田南河内遺跡:祭祀関連遺構が出土しています。概ね8世紀後半頃と想定されています(*)。
大曲五反田遺跡:律令的な祭祀跡が出土しています。9世紀前葉~中葉頃と想定されています(*)。
*:シンポジウム「下寺尾官衙遺跡を考える」2012.7.15-16 基調報告4「小出川河川改修事業関連遺跡群の調査成果」依田亮一、高橋香
発起人の中に寒川町岡田、大曲、一ノ宮の人が加わっていました。
寒川町につぎのような伝説が残っています。
「大昔、下寺尾の小出川の東に大きな寺があった。村人は七堂伽藍と呼んでいた。ここは尼寺で、海老名の国分寺の分れだったとか。冬の初めの頃、ある夜、突然、七堂伽藍が燃え上がった。七堂伽藍は何一つ残さず、その夜明けまでに全焼した。 {『さむ川その昔を語る』第8集 寒川町郷土研究会 昭和60.11.1 p31 (伝説「美女塚」鈴木助晴記)」
ここで、
「ここは尼寺で、海老名の国分寺の分れ」→国分尼寺
「冬の初めの頃、ある夜、突然、七堂伽藍が燃え上がった。七堂伽藍は何一つ残さず、その夜明けまでに全焼した。」→元慶2年(878)9月29日(新暦10月28日)夜の大地震
に符合します。ということで、下寺尾廃寺(七堂伽藍)=国分尼寺=漢河寺(湧河寺)ではないかと思われます。
下寺尾廃寺(七堂伽藍)=漢河寺(湧河寺)ということになると、項1に関連してきます。
下寺尾廃寺が建っていた頃の出来事
時代 | 年 | 事柄 |
飛鳥 | 天武4年(675) | 日本書紀に相模国に関する最初の記録として「高倉郡」の名が見える。 |
〃 | 7世紀末~9世紀中葉 | 下寺尾高座郡衙(8世紀が中心)が存在。 |
奈良 | 和同7年(714) | 「着好字(群郷名には良い字を使え)」という措置に伴い高「倉(くら)」を高「座(くら)」に変更。 |
〃 | 養老年間(717~723) | 安楽寺(真言宗)建立 |
〃 | 天平14年(745) | 東大寺 創建 |
〃 | 天平勝宝4年(752) | 東大寺大仏造立 |
〃 | 天平宝字元年(757) | 景観寺(天台宗)創立 |
〃 | 宝亀2年(771) | 武蔵国の東海道編入。これに伴い、相模国内の駅路の変更。東海道が寒川を通るようになった |
平安 | 承和元年(834) | 薬王寺(古義真言宗)造立(寒川神社の別当) |
〃 | 承和2年(835) | 鮎河(現相模川)に浮橋が架けられた(「類聚三代格」巻16 太政官符) |
〃 | 承和13年(846) | 「続日本後記(しょくにほんこうき)」に寒川神社が初めて登場 |
〃 | 貞観15年(873) | 国分尼寺が漢河寺(下寺尾廃寺?)へ移転(日本三代実録) |
〃 | 元慶2年(878) | 関東に大地震発生。(この地震で海老名の国分寺、下寺尾郡衙、下寺尾廃寺が壊滅的な被害を受けた。国分尼寺が漢河寺から元の地へ戻った(日本三代実録)) |
〃 | 延長5年(927) | 「延喜式」に寒川神社は「明神大社」の記述あり |
〃 | 天慶3年(940) | 相模国分寺や定額寺(=漢河寺=下寺尾廃寺?)の仏像が流汗する。(*) |
*:「ふるさと歴史シンポジウム 復元!古代都市平塚~相模国府を探る~」p26「『相模国府』をめぐる年表」荒井秀規 2006.11.11
発行 2017.12.7
改訂 2019.1.20