寒川町岡田の県道45号線沿いに「十三塚」があります。
これまでに最大15個の塚が確認されています。(図中●印)
ただし、1991年時点で残っていたのは6個です。(図中◎印)
十三塚とは、一般的には、
・十三仏思想から(柳田国男)
・伝説:姫と12人の側女、武将と12人の家来、大鼠と12匹の猫
などの説があります。
寒川町岡田の十三塚にも諸説あります。
残念ながら、寒川町岡田の十三塚は何かわかっていません。
出典 | 説 | 考察 |
新編相模国風土記稿 | 並塚 中原道の左右に列す 大小十あり 故に此唱あり | この塚が室町時代に作られたとしたら、破壊が進み、数が減ったと思われる。 |
高座郡教育会編纂「高座郡歴史」明治42(1909)12.3 p46 第八 古戦場 二、菅谷原 |
菅谷原は須賀原または菅原といふ。中原往還に接する寒川村岡田及び大蔵、小谷一帯の平原の総称なり。菅谷原の戦ひは、両上杉氏の合戦にして、今なほ戦死者を埋めたる多くの塚を存す。里俗この所を十三塚といへり。 | 両上杉の長享2年(1488)6月18日の戦いは武蔵須賀谷原{比企郡嵐山(らんざん)町菅谷}である。従って、何か混同していると思われる。 |
「寒川巡り」昭和3年(1928) 10.26 清水善茂著 寒川神社復興奉祝会発行 |
鎌倉九代記によれば「長享2年6月18日顕定憲房の父子二千余騎を率いて相州菅ケ谷原に出張せられしか(以下略)」 当時(長享2年6月18日)の戦死者の合葬されたものが十三塚の起源である。 |
両上杉の長享2年(1488)6月18日の戦いは武蔵須賀谷原{比企郡嵐山(らんざん)町菅谷}である。従って、何か混同していると思われる。 |
「史話さむかわ」昭和43年(1968)11.1 加藤丘之助編纂 寒川町役場発行 | 十三塚が両上杉の古戦場で、そのしかばねを埋めた塚であるとの説は、長享2年6月18日の合戦は武州菅ケ谷であってここではない。従ってこれも否定されるべきである。これは明らかにこの附近の豪族、即ち首長の墳墓である。 | 「大(応)神塚古墳は相武国造等の墳墓である」という主張から発展した説である。しかし、発掘調査の結果、墳墓を示すものは何も出土していない。 |
茅ヶ崎文化資料館だより No.31 1979.1 行谷雑話(4) 野中孝義 | 寒川町菅谷原に点在する大小の塚(十三塚)は、この{永禄12年(1570)武田信玄と後北条との戦い}戦死者を埋葬したものと聞いている。 | 寒川域で武田・後北条の戦いがあったとの記録は不明である。また、時期的にも合わない。 |
十三塚〈現況調査編〉 (1984年) (神奈川大学日本常民文化研究所調査報告〈第9集〉) | (寒川町の十三塚には触れていない。) | 寒川町岡田の塚は「十三塚ではない」のか。 |
神奈川県高座郡寒川町 岡田越の山横穴墓群 岡田おこり塚(十三塚) 発掘調査報告書 1991.3.31 越の山横穴墓群発掘調査団 十三塚遺跡発掘調査団 編著 | トレンチからの遺物の出土は認められなかった。構築地業層真上に火山降灰層が検出された。これ等の事実により「おこり塚」の構築時期は16世紀初頭~中葉以前の比較的それに近い時期の所産と推定されよう。 | 「16世紀初頭~中葉以前」は後北条の時代。永正9年(1512)9月8日、岡崎城(平塚市)(*)の戦いがあった。後北条と三浦氏の戦いに関連した塚か、あるいは、無関係なのか。 |
寒川町十三塚No2
寒川町十三塚No3
寒川町十三塚No5
寒川町十三塚No10
須賀谷原古戦場(須賀谷原遺跡)2010. 1.23
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平成9年度考古学入門講座 神奈川の古墳 一その出現と展開一 1998.2.22 発行 神奈川県考古学会 編集 平成9年度神奈川県考古学会(PDF)