宮山にある曹洞宗寺院。山号を龍宝山という。開山は英顔(えいがん)麟哲(りんてつ)。開基は不明。本寺は三田(厚木市)の清源院。寒川神社に隣接して立地すること、境内に貞治6・7年(1367・68)の宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基が残ることなどから、興全寺以前にも寺院が存在したと推察されるが、相模国における曹洞宗の勢力拡大の時期や同じ麟哲を開基とする小谷の福泉寺の創設時期とほぼ同時期だとすると、天正14年(1586)ごろが開創時期と考えられる。本尊は釈迦如来。(『町史10』p153)(『さむかわ大事典(『寒川町史』13 別編 事典・年表CD-ROM版)』より引用)
上記の通り、興全寺の開創は天正14年(1586)頃と考えられています。
では、なぜ、創建より200年以上も前の宝篋印塔があるのでしょうか。
「寒川町史」や「鷹倉社寺考」によると、天平宝字(757~764)年頃、この地に「大観音寺」というお寺があり、「読師」が住んでいたそうです。読師は国分寺に1人しかいない高僧です。仮に事実だとしたら、その人がなぜ寒川に住んでいたのでしょうか。
「相模国分寺志」によると、講師・読師は「法務のみならず、救世済民の実際的方面にも、活動したことが頗(すこぶ)る多かった」とのことです。具体例に、→鮎川(今の相模川)の浮橋
を挙げています。浮橋は、田端と四ノ宮間に架けられていたと思われ、その管理監督のために寒川に住んでいたとしても不思議ではありません。
しかし、「鷹倉社寺考」によると、読師が寒川に住んでいた時期は、浮橋ができた時期{承和2年(835)6月29日以降}と、70年以上のズレがあります。
いずれにせよ、寺院以外の場所へ宝篋印塔を建てることは考え難いことから、興全寺辺りに古代の寺院があったことは事実のようです。
貞治7年(1367)の宝篋印塔は地蔵講衆によって建てられ、基礎右側に「右為地蔵 講衆逆修」と彫られています(「綾瀬市史だより」)。
また、興全寺には室町時代(1336~1573)の木造地蔵菩薩立像があります。大観音寺の本尊がこの地蔵菩薩立像であり、衆生によって地蔵講が営まれた、ということはないでしょうか。
また「鷹倉社寺考」によれば、大観音寺址に「采女塚」があったそうです。残念ながら確認できていません。
宝篋印塔:寒川町指定重要文化財 第11号
http://www.town.samukawa.kanagawa.jp/chosei/bunkazai/jyuuyou/samukawashitei/1361323973629.html
宝篋印塔は「宝篋印経記」によると応和元年(961)、中国より日本に伝えられたもので、「宝筐院陀羅尼経」を塔中に納め礼拝すれば生きている間は災害から免れ、死後は必ず極楽に生まれかわるという功徳が説かれていたが、鎌倉中期以降墓碑塔、供養塔に変化していった。この塔は地蔵信仰にかかわりのある宝篋印塔で、寒川町内最古のものである。寒川町教育委員会(興全寺宝篋印塔立て札より)
・「寒川町史」10 別編 寺院 1997
・綾瀬「市史だより」第19号 1996.3.25
・「鷹倉社寺考」海老名古文書研究会 H15.4.20・・・「鷹倉社寺考」は万治2年(1659)寒川神社の神宮従6位下金子伊予守の編著書
・「相模国分寺志」大正13年 海老名村
発行日:2018.1.13